両側を高い塀と重厚な蔵で威圧(いあつ)されると、
狭い道幅)が更に狭く感じてしまう。
昔は1mほどだった小路が、製糸業の水車動力から蒸気機関動力への移行に伴い、石炭を運ぶための小路として、明治20年「青木屋(左)」「中屋(右)」の両製糸家によって拡幅(かくふく)された。
青木屋はいち早く器械製糸(きかいせいし)を取り入れた製糸業者。
社長の甚九郎(じんくろう)は日本で初めての製糸結社(せいしけっしゃ)「東行社(とうこうしゃ)」の創立者でもある。
現在は両家とも製糸業はやめてしまったが、当時の蔵は今も残され、この道の先には製糸業発展の核である「裏川用水(うらかわようすい)」も残されている。
明治7年頃の製糸業では、この用水に水車をかけて動力を得ていた。
明治3年の「須坂騒動(すざかそうどう)」の時には一揆の一行が、この道を通過したそうだ。
※裏川用水:水車をかけるのに便利な家屋の裏を流れる用水
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